「何言うとんのん、私らの従姉妹(いとこ)やんか (笑)」やって。
ぬぉー!
“ワシ”には八十のいとこがいたんや…(スゴイやろ)。
アニキと、十七離れ(真ん中にお姉ちゃん四人)で生まれた末っ子のワシの子
(本家系図的に孫の代)と、ワシの甥っ子の子(同、ひ孫)が同い年ぐらいの列になったりして、ややこしくて面白い。
昭和41年頃のオカンと店主(笑)
過日、
享年九十六歳でオカンこと蔦子(ツタコ)さんが逝った。
まさしく大往生だ。
大正に生まれ、戦争を生き抜き、子らを六人育て上げ、ここに個性豊かな大家族を築いた。
花屋に卵屋(養鶏)、人形屋に盆栽屋。
オヤジと二人で色んな自営業で生計を支えてくれた。
9月の国体で、もうあかんって電話あって、水連の皆さんが「すぐ帰れ!」って言うてくださって、愛媛から駆けつけた病院で見たときは、ほんまにあかんと思った。
がしかし、お世話になってた汐里(特養)さんが看取り介護もしてくれるとのことで、
地元に帰ってきたら、なんと元気復活、担当医の先生に「キセキですね」って言われた。
「先生、なんとか、祭り(10月)まで持ちますかねぇ、お袋、祭り好きで最後にも一回見せてやりたくて・・・」
と言ってたのがもう3ヶ月前、お正月まで持ちこたえられた。
10月秋祭り
それは、何と言っても四人のお姉ちゃん達の日々のお見舞いってか看病と孫ひ孫の時々の訪問、そして汐里さんの皆さんのお陰だ。
今年に入って、とうとう点滴も入らなくなってきて、あゝ、身体が「もうええよ」って言うてんねやなぁ、と覚悟はしてた。
1月8日の午前4時頃に電話がかかってきて、ついにこの時が来たんやなぁと、着替えて歩いて約3分(笑)の特養さんへ嫁さんと行って、オカンに会った。
オカンはまだ温かった。
よう頑張ったなぁ。
平成30年1月8日午前4時52分。
オカンは、天国へと旅立ったのだった(って感じは無かった、オカンはオカンやから)。
お通夜前日
式場の和室、一人でオカンの横で寝たった(ってか、目が覚めて寝られんかったけどね)。
時々、顔触ったら、やっぱり冷たいねん。そのことだけが異質やった。
前日に、色んなことに詳しい義兄のシロユキさんに「なんで亡くなってから24時間以上、おいてから、火葬するのかって言うと・・時々・・」なんて話しを聞いてた。
ら
夜中に
・・・・
隣で
・・・
ガタガタと音が!!
ぬぉー!!!
ウソやろ?
と思ったら、夢やった(笑)。
ふ〜。
通夜には、連中もたくさん来てくれた(連中は兄弟やから)。
両日とも、会社の上司もお越しくださった(感謝しか無いです)。
オヤジの時は、名古山(火葬場)で一旦解散したんやけど、今回は名古山でみんなお昼取って休憩した。
名古山にて
だから、花束一杯で見送ったお棺が、お骨で返ってきたのを見たひ孫らは、びっくりしてた。
泣き出して、出ていってしまう子もおった(そら、そやな)。
でも、ええ勉強やね。
みんなのおばあちゃん、最後に家族全員集めてくれて、最後まで自分の身体で人生教えてくれてんねんやね。
四十九日まではええことみんなで話ししたったらええんやてね。
うん、無理やり話し作らんでも、ええオカン(おばあちゃん)やったから大丈夫。
今でもね、老人ホームの前の国道通るとき車越しに覗くクセは直らん。
オカンのおった部屋、違う人が入ってんのやけどね。
さあ、そろそろ天国ついたかな。
オヤジと仲良うしてるんやろか(笑)。
まあ、そっちでもおおらかで長生きしてや。
ワシはまだまだ修行足らんから、いっちょまえなってから、そっち行くわ。
ほなま、そゆことで。
有難う、感謝いたします。
ヒデキ